自分に自信が無い人は、激しさやペースを乱されることを愛情と感じる
○受動的な私を強引に巻き込もうとする→求められている自分
激しさは愛情と勘違いできる。自分に自信がない人は、自己中心的なくらいにわがままをぶつけられることで愛情を感じる。穏やかな愛は自信がない人たちには届かない。自分の石がない自信がない人たちにとっては自分のペースを乱すくらいの激しさが愛情として感じられる。
暴力も愛という名のコミュニケーションに変わってしまう。暴力という関心を向けられている、かまってもらえている、ということに愛情を感じる。自信がない人のそうした感覚は友達に話しても理解されない。ゆえに、よけいにDV的な関係を愛情と感じることで、その構造から抜け出すことができない。
自分に自信がない人は、自分の意思に関係なく相手の欲望につき合わされることに愛情を感じる。自己中心的な強引さを「私は求められているんだ、私は必要とされているんだ」と感じるのだ。束縛や暴力くらいの強引さでこそ「私は関心を持ってもらっている、私が求められている」と感じられるのだ。
■「強烈さ」を「親密な結びつき」と混同する
アディクションの力に突き動かされて行動を始めると言うのは、
非常に強烈な瞬間です。
なぜなら、その行為には害や危険が伴うからです。たとえば、
・過食アディクションの人が、食料品をたくさん買い込み、それをみな食べてから
無理やり吐くのは強烈な体験である。・性的アディクションのある人が捕まれば新聞に名前が載るかもしれないと知りながら
痴漢行為に及ぶのは強烈な体験である
アディクションに犯された人は、行為を始めたことで作り出される高揚感や
多幸感を感じながらも同時に羞恥や怯えや罪悪感などを覚えていることが
よくあります。しかも彼らはそれを”強烈に”感じています。
彼らはその時、自分がその行為をする瞬間を強く感じていますが
それはこの強烈さのためです。
しかし、「強烈さ」は「親密な結びつき」と同じでありません。
彼らはそれをいつも混同します。たとえば、アルコール依存症の人が、飲み友達と飲んでいる時に
意気投合し、心の底からわかりあえたように感じても、
しらふになればたちまちその感覚が失われてしまう(親密な結びつきはない)
などはその典型です。
アディクションとは関係ありませんが、このような「強烈さ」と「親密な結びつき」の混同は
思春期の若者に善く見られる現象でもあります。その典型が10代の友情や恋愛です。
思春期の若者は、その時の親しい友人や好きな人が一生の友や伴侶になると信じ込むことが
よくありますが、多くの場合、その感覚は時間と共に色あせて生きます。
本来、人間同士の真に深い心の結びつきは、長い時間をかけてゆっくりと培われるものですが
思春期には目の前の事しか見えないことが多いのです。
(「やめられない心」依存症の正体 作者クレイグ・ナッケン 講談社)
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