現代の「いじめ回し」について思うこと













「いじめられる理由」など無い時代にいじめに接しているあなたへ



◎言いたいこと


現代のいじめは、「何も悪いことをしていないのに」いじめられる。

だからあなたは悪くないんだよ!









○いじめられる理由が分からないいじめは凶器だ


奈良県橿原市で3月に自殺した公立中1年の女子生徒=当時(13)=が生前、

同級生から仲間外れにされたとして「これはいじめ。もう死にたい」と友人に泣きながら相談していたことが5日、学校関係者らへの取材で分かった。自殺の原因にいじめの可能性が浮上した。


関係者によると、女子生徒は親しかったグループで度々無視され、

昨秋ごろから孤立しがちになった。

無料通信アプリのLINE(ライン)上では、

女子生徒が読めないように設定し、「うざい」と書き込まれることもあった。

女子生徒は2月末〜3月初旬に「はみられて(仲間外れにされて)しんどい。死にたい」と複数の友人に泣きながら相談。

自殺の数カ月前には、自分のノートに同級生の名前を挙げて「何かしたんかな? 自分はいらん子なんかな? 死ねるもんなら、死にたい」と書いていた。

http://kanasoku.blog82.fc2.com/blog-entry-30252.html











○ブログに残そうと思った趣旨




・いじめられたのは「何か悪いことをした」わけでもないし「いらない子」なわけでも、もちろんない


女子生徒は2月末〜3月初旬に「はみられて(仲間外れにされて)しんどい。死にたい」と複数の友人に泣きながら相談。

自殺の数カ月前には、自分のノートに同級生の名前を挙げて「何かしたんかな? 自分はいらん子なんかな? 死ねるもんなら、死にたい」と書いていた。


…仲間はずれにされたのはこの子に何か落ち度があったわけではない。

誰かを仲間はずれにする事で仲間意識を高めると言う手法はもはや現代の学校では当たり前に行われているもので、たまたまこのときは、この子がそういう対象になってしまったのであって、何か、この子に落ち度があったわけではない。



しかし、それゆえに、いじめられた側はたまったもんじゃない。



悪いことをして仲間はずれにされたのであれば、その悪いことを謝るなり許してもらうための行動をすれば言いのだけど、それがわからないから(仲間はずれにしているほうも理由など分かっていない)どんどん頭の中で自分の悪い部分探しが始まってしまって、罪悪感とか自責感がついには彼女を自殺に追いやってしまった。

現代のイジメは「いじめまわし」など捉えたほうがいい。

つまり、「誰かを仲間はずれにする事で結束を高める。その結束のために常に誰かが仲間はずれの対象にされる時代なのだ」と心得ることが大切だと思っていて、それはつまり、

いじめの標的にされることは誰にもで起こりうることだから標的にされたときにきちんとしたサポートならびに助けを求めることを躊躇わないと言うこと。





・いじめる側も「いじめる理由」をわかっていない


現代のいじめにおいて、「自分はなぜいじめられたのか」が明らかになることは殆どないと言ってもいいだろう。

なぜかというと、現代のイジメはほとんどが集団の「気分」によって行われているとしか言いようの無い場合が多く、「なぜ」という理由が本当の意味で明確になる様な性質のものではないからだ。

いじめの空気が始まると、引っ張られるかのように集団全体がイジメに加担する。

その中の一人を捕まえて「なぜいじめるのか」と尋ねても、納得のいくような答えはまず返ってこないだろう。














○現代のいじめについてとその対処法



■いじめ体験を過小評価しない



逃れられない環境で一定期間繰り返された熾烈ないじめによって引き起こされた症候群は、やはり複雑性PTSDと診断されるべき性質を持っていると思う。

もちろん捕虜収容所や家庭などとは異なり、いじめの舞台となる学校は下校すれば「逃れられる」し、いつでも不登校や転校の自由がある、

という意味では「逃れられる環境」であるかのようにみえる。

しかし、実際にいじめ被害に遭い続け、人生そのものを棒に振るような症状を発展させた患者たちと接していると、それはやはりさまざまな意味で「逃れられなかった」のだということがわかる。



いじめの被害に遭った人たちは、

「思い出すだけで恐怖」「すでに乗り越えているべきことで、いつまでも引きずるべきではない」「いじめられたということを人に知られると駄目な人間だと思われる」

といった感覚を持っていることが少なくない。

面接の中で、いじめられた当時の事を話すだけで夢など再体験症状が賦活されることはもちろん多い。

また、トラウマについての知識が乏しいと「終わったこと=乗り越えたこと」という誤解をしていることが多い。

逃れられない環境において一定期間続いた対人トラウマが、どれほど骨身にしみる影響を自らに与えたか、気づいていないのだ。

そして、その症状として現われていることすら、「自分が弱い証拠」と考えている。

そしてできるだけ「強く」なりたいので、いじめられた体験を語ることすらしたくないのだ。

いつまでたってもそんなことを言い訳にしてぐずぐずしていると思われたくないからである。






■「なぜいじめられたのか」に対する答え



いじめられた経験のある人は当然のこととして「自分はなぜいじめられたのか」ということを知りたがる。

ある意味では大人になってからも、一生その問いを自分に投げかける。

自分がなぜいじめられたのかがわからなければ、本当の意味でその体験を消化することができないし、「いじめられない自分」に変わることができないと思うからだ。

しかし実際のところ、少なくとも現代のいじめにおいて、「自分はなぜいじめられたのか」が明らかになることは殆どないと言ってもいいだろう。

なぜかというと、現代のイジメはほとんどが集団の「気分」によって行われているとしか言いようの無い場合が多く、「なぜ」という理由が本当の意味で明確になる様な性質のものではないからだ。

いじめの空気が始まると、引っ張られるかのように集団全体がイジメに加担する。

その中の一人を捕まえて「なぜいじめるのか」と尋ねても、納得のいくような答えはまず返ってこないだろう。

「なぜ」がわからないままに、いじめられた体験という「役割の変化」を乗り越えるのは、確かに大変なことである。

自分の体験を位置づけながら前進することができないからだ。

しかし、このような場合「なぜ」への答えは永遠に出ないだろう、と理解することが「なぜ」への答えとなる。

つまり「自分はなぜいじめられたのか」の答えは、「集団の気分がそうだったから」「現代のイジメとはそういうものだから」なのだ。

確かに、みつけはじめれば「背が低い」「髪が癖毛」「吃音がある」「ノリが悪い」「きっとどこかしらに人を不愉快にさせる性質があるはず」など、

いくらでも「いじめられそうなポイント」を見つけることはできるだろう。

でも、そういう人のすべてがいじめられるのか?あるいはそういう人がいたら自分自身はいじめるのか?と考えてみれば答えはノーである。

むしろそうやって「いじめられそうなポイント」探しに入っている、ということそのものが、トラウマ症状としての「自分はどこか足りないと言う感じ」なのだと言えるかもしれない。




■「いじめられない自分を保つ」ことの苦しみ


いじめというのは理不尽な形で行われるもので、多くの場合、自分がなぜいじめられたのかということは大人になっても本当のところは分からないものである。


そんな中、本人が身につけるのは、とにかく自分を整えて、いじめられる隙を作らないようにする、という生き方である。

この「いじめられる隙を作らない」という目的のためには、完ぺき主義的に「ちゃんとした人」になる場合もあれば、危険の兆候を察知すると引きこもる、

という形をとるばあいもある。

いずれにしても、いじめおいう理不尽な体験をしてしまうと、人間関係のルールがわからなくなるわけであるから、

ルールに沿って必要な対処をするという通常の方法がとれず、とにかくあらゆる危機に備える、というやり方で生きていかざるを得ない。

そのような生き方は、いじめを生き延びてきた本人が自分を守るために身につけた適応スタイルであれ、その状況においては他に選択肢がなかった、ということになる。

しかしもちろん、異常な事態を生き延びるために身に付けた対処法が、より安全で正常な環境に適合するわけではない。


いじめられた人の治療はいじめという体験がどれほどひどいトラウマ体験であるかの共有からはじまる。

そして現在の生きづらさがいじめというトラウマ体験による症状だという事を認識していく。

「自分はいじめられるほどだめな人間なのだ」という認識から、「自分はいじめられた結果トラウマの病になったおり、その症状のために行きづらいし、自分のことをだめだと感じるのだ」

という認識に転じてもらう。


これは大きな前進となる。


いじめという対人トラウマ体験をした人の最も本質的な不信感は、他人ではなく自分自身に向けられているものである。

もちろん自分を苛めた相手や助けてくれなかった他者に対しても不信感は強く持っているのだが、それ以上に

「いじめられるほどだめな人間である自分」「うまく生きられない自分」への不信感が強い。

そんな中、「自分をだめだと感じるのも、トラウマ症状によるものだ」と整理できることは、自分への信頼感を取り戻していくことにつながる。

「自分が完璧にしていなければいじめられる」と、対人関係におけるネガティブな要因に過敏に反応する人に対しては、相手の反応というのは

「こちら側にどれほど非があるか」ということよりも相手側の事情を反映した部分が大きい、ということを理解してもらう。

役に立つ視点は「では相手が多少完璧にできないとして、自分はその相手を苛めるのか」ということである。

患者はほぼ例外なく、「そんなことはしない」と答える。

したがって、自分に多少の非があったとしても「いじめてくる」ということが人間として異常な行動なのだという理解が進んでいく。

そして、「自分が完璧にしていなければ」という発想がどれほど自分を追い詰めてきたか、その考えこそが自分自身をいじめてきたのだ、という構造を理解できると、

違う生き方を模索できるようになってくる。

もちろんこれらのプロセスを身近な人が支えてくれることは計り知れないプラスをもたらす。

こんな治療を積み重ねていくと、唯一の価値観から、より「太い」価値観への成長がみられるようになる。

「いじめられないように自分を整える」という考え方から得られる選択肢は、細い、単一のものであり、常に緊張感を伴うものである。

しかし、治療の中で「いじめる相手側に問題があるのではないか」という視点を身に付けたり、そういう見方を共有してくれるソーシャルサポートを充実させたりしていくと、

より幅広い選択肢を考慮できるようになるのみならず、「何が自分にとって最もよいか」というものの見方をできるようになってくる。

つまり、自分を大切にできるようになってくるということであり、自己肯定感が向上してくるということである。








○提案


・義務教育の段階で、クラスという単位で子ども達を管理することをやめる


何かの本で読んだのは大学あるいは単位制の高校ではいじめが発生しにくいということ。

簡単に言えば、「クラス(教室)」がいじめの発生の大きな要因なのではないかということ。




「クラスなどという同じ教室内で毎日顔をあわせあっていれば、気に食わない奴は一人は二人必ず出てくるのが人間。

 気に食わないのに同じ空気を吸っていれば、いじめという方法でそのストレスを発散させようとする輩も出てくるだろう」


このクラスという単位で子ども達を強制的に同じ空間に毎日おさえこむことをやめれば、

いじめの発生は少しでも減少させることが出来るのではないかと思う。



実際に、小中といじめを受けてきた人で普通の高校に行ったけど退学してしまったあとに、通信制に通ったら、いじめにあうことなく卒業した人を5人くらい知っている。



もちろん、学業が終われば職場と言う毎日同じ人と顔を合わせる場所に行かなくてはならないし、気に食わない人とでも上手くやっていかなければならないという点で言えば、

通信制を卒業してからと言って、意味が無いと言う人の意見もわからないこともない。



ただ、本人にとって「学校を卒業できた」という成功体験は、計り知れない自信と満足感を得ることができる体験だと思う。

その成功体験が社会に適応していく土台となる可能性を否定するのは悲しすぎるので、どうか、通信制であっても卒業できたことには一定の評価を与えて欲しいと思っている。







○さいごに


学校現場でいじめを受けた子の多くが目指しているのは「いじめられない自分になる」という変化であるが、

残念ながらいじめはどこでも起こるし、誰もが標的になりうる。


そして、標的になる理由もわからないままの場合が殆どだ。



だとすると、「いじめられない自分」を作り上げることの緊張感と苦痛をずっと保って学校生活を送ることよりも、

「いじめられたとしても違う対処(信頼できる友達、大人に相談する。ネットでもいいし、塾の先生でも良い。)ができる自分になる」という変化なのである。

いじめの標的になることはどれだけ完璧に「いじめられない自分」を作り上げたところで完全には避けられないのが現代のいじめ。

だから、準備すべきなのは「いじめられない自分」ではなく「いじめられてしまったときにどう行動どうすべきなのか?信頼できる大人は周りにいるか?いないならネットの世界でも良いから、一人で抱え込まないこと。誰かに自分のおかれている状況を話して、あなたが悪いわけではないと客観的な意見をもらうこと」




どうか、いじめによって「いらない子なんかな」という感覚を覚えて、一人で抱え込んでしまって、命を落とす子が少しでも減って欲しいと祈っています。







参考文献:

思春期の意味に向き合う 水島広子 岩崎学術出版社