誰かから見たあなたが本当のあなたのわけではない
◎今日の一言
『評価と言うのは主観的な「自分なりの消化の試み」ですから、往々にして相手の現実とはずれているものです』
○批判とは単なるイチ人物の勝手な思い込み
もともと「自分は他人から受け入れられる人間だ」という感覚を強く持っている人が他人から批判されたとしても自分の問題としてそのまま吸収してしまわずに現実的に修正可能な部分だけを取り入れるか、単に「相手の感じ方」として位置づけらることができるでしょう。
一方、そもそも自分はだめな人間だと思っていればその批判は鋭く刺さってしまう。
■評価は他人からの押し付け
ここまでみてきたように、人目を気にするようになる元には
「人は自分に評価を下す存在」という感覚があり、それは過去のプチ・トラウマ(場合によってはトラウマ)を反映するものです。
私たちは小さい頃から様々な形で評価を下されてきており、その積み重ねの結果、「人は自分に評価を下す存在」という感覚が作られているのです。
私たちは人を見たときに「あの人は○○な人だ」という評価をすぐに下すことが多いものですが
そもそも評価とは何かと言うと、「異物」を自分なりに消化しようとする試みです。
未知のものをそのままにしておくと不安なので
自分が知っていることの枠組みの中で位置づける、という作業をしたくなるのです。
それが評価を下す、ということです。
そして、「あの人は優しい人なんだ」と思えば優しい人として接しますし「あの人は、非常識だ」と決めると
被害を受けないように気をつけておこう、と気を引き締めるものです。
そんな評価は、あらゆる人に対して、あらゆる領域に及んで下されます。
そして、その一つが「あの人は太っている」という評価であったり「あんなに太っているなんて、よほど節制がないに違いない」という
評価だったりするのです。
ところが、評価と言うのはあくまでも主観的な「自分なりの消化の試み」ですから、往々にして相手の現実とはずれているものです。
そのようなずれがあるのに、一般に、評価は決め付けるような形で
行われるため、相手からすると押し付けであり、ことによっては暴力のようにすら感じられます。
そもそも、ある人の事情はその人にしかわからないものであり、
他人のものさしをもって何かを決め付けると言うことそのものが
相手を侵害することになるのです。
あらゆる評価に暴力性が内包されているのですが
特に体型についての評価は鋭く刺されるものです。
その一つの大きな理由は
評価の「ものさし」が「痩せているかどうか」というひとつだけだからでは
ないかと思います。
例えば、仕事の仕方が悪いなどと言われたら
「いえ、これにはこういう事情があって」などと言い返すこともあるでしょう。
仕事には自分以外の人や事情が関わってきますし
そもそも仕事の仕方には多様性があって
どれがベストといえないところもあるからです。
しかし、体型の場合は「太いか細いか」というひとつだけの
「ものさし」で測られてしまうのです。
評価と言う性質上、その目盛りを決めるのは相手ですから、
極めて一方的な話になります。
一般に、評価はその「ものさし」の数が少なくなればなるほど暴力性が増すものです。
それだけ、「良いか悪いか」という断罪的な要素が強まるからです。
評価の暴力性は
ネガティブな評価の場合だけではありません。
ポジティブな評価ですら、同じ効果を内包しているということを
摂食障害の人たちが教えてくれます。
体型にとらわれている人たちにとって
「痩せたね」と言われることは間違いなくポジティブな評価でしょう。
言われた一瞬は確かに嬉しいそうです。
でも、次の瞬間には「次に会ったときも痩せているようにしなければ」「もう太れない」
と感じて苦しくなるのです。
- 作者: 水島広子,matsu
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