ACにおける「親の情緒のお世話をしていた」とはどういうことなのか

AC わたしは腹を立てている対象(=職場の先輩、会社自体、親)が怖いと言うこと。わたしの意見を言うと、言葉、態度、感情など暴力的なものが返ってきたことが過去にあって、
その過去の経験から怒りと怖れを感じ続けてしまっていると言うこと。


昨日彼に、親を拒否し続けるのはしんどいだろうしよくないことなんじゃない?誰が悪いとかいいとかじゃないと思う、と言われて落ち込んで、
何時間も泣いて過食嘔吐した。ふとしたことで、不安が、風船のようにどんどん膨らんでなにも言えなくなるし考えられなくなる。
昔からそうなんだけど…

裁くのをやめたいのに、わたしはずっと親を裁いているし、でもまだ接触を持ちたいともこれっぽっちも思えないけど、
そんな自分が恥ずかしいし罪悪感がある。もし、わたしがメンタルの病気だと親が分かったら、わたしを世間から隠すだろうな。
不登校のときや、就職に失敗したときのように。親との関わりを考えると、まったく明るい気持ちになれない。
落ち込んだ気分のとき、10代のころ…家に帰って落ち込んだ態度でいてはいけなかったので、泣き止むまで時間を潰してから帰ったり、
部屋に引きこもって、親と話すときは演技していた。いまも昔もやっていることに大差ない


DVする人は、暴力を振るう相手への行為を同時に自分自身にもしていると思う。
わたしは元彼に、長時間の説教の末に死ねばいいのにと言われたりもして、すごく傷ついたけれど、
たぶん全部彼自身にも向いていた言葉だったんだろう。だからって許せるわけではないけど、把握するとすこしスッキリできる。





















・感情は全て正しい

親を嫌うなんて最低だ。
正しいことを説教してくれている。


親を嫌いになんて最低の事だ、と一般的には思えたとしても、湧いてくるものを否定しない。できれば誰かに肯定してもらう。
たとえ相手の話していることが正論であろうとも自分の中に湧き出た感情について否定をしてはいけない。





・親の心情を優先し親に負荷をかけないように感情を解放できない

10代のお金の無い子供には居場所は基本的には学校か家しかない。
学校で嫌な事があったのに家で、そのことについて味方であるはずの親に愚痴ることすら出来ない状態が続けば、
負の感情はたまり心は廃れていくだろう。







・親を嫌いになれる子どもはいない



最低の親で大嫌いなはずなのに求めてしまう。
残念ながらどれだけ最低の親であっても客観的にみたら最悪の親であっても子どもは親を嫌いにはなれないんですよねー
だから、嫌いだけど求めてしまうのは何も恥ずかしいことではない。














・無条件の肯定的関心の欠如


私たちが人(他人も自分も含めて)に肯定的関心(感情)を持つとき、
そこには「条件付の肯定的関心」と「無条件の肯定的関心」があります。

「条件付の肯定的関心」とは「〜なら愛情を持つ」ということです。

「いい子でいるのなら、温かい親で居てあげる」
「成績がよければ、自分の子として誇りを持つ」というような感じです。

ここで言う「条件」とは「いい子、良い成績」というように
何らかの意味で「形」になるものです。
(いい子というのは、親に逆らわず成績もよく先生からもほめられ、友達にも親切で…)と
定義づけることが可能、という意味で「形」になっている。

一方、無条件の肯定的関心とは
その人の存在そのものに関心を持つことであり
「条件付の肯定的関心」とは次元が違います。

「存在そのもの」というのは「形」にはならない、
一見とらえどころのないものです。

それは、生命の事ですらありません。
無条件の関心は、相手の生命が失われたからといって
なくなるわけでもないからです。

「形」になれないものを定義することは難しいのですが
「存在そのもの」というのは
いろいろなプロセスを踏みながら生きている相手そのもの、
と言ってもよいでしょう。

その前提として、人にはそれぞれの事情がある、という理解があると思います。
一見とても不適切な思考や言動であっても
それぞれの人の事情の中で生み出されてきたものなのです。

例えば、「わざと人を怒らすようなことを言う」という人がいても
その人がなぜわざと人を怒らせるようなことを言うようになったのか、
というその人なりの「文脈」を考えれば、それは「わざと」と言うよりも
「そんなふうにしかできない」と理解することも可能になります。

人は周囲と影響を与え合いながら現在の形に至っているのであって
自分ひとりで現在のあり方を決めたわけではないのです。

それぞれの人がどんな文脈を持っているのかを
全て知ることはできませんが、
それぞれの人が、それぞれの事情を抱えながら、
一生懸命生きていることを認めることはできます。

そのプロセスを尊重し
評価を手放すということが「無条件の肯定的関心」を持つと言うことになります。


「コントロール感覚」を持つためには「自分」をある程度肯定している必要があります。
その時点での自分の感じ方を肯定することによってしか
コントロール感覚を得ることはできないからです。


どんな人でも生活上の変化に応じて自分を肯定する気持ちが一時的にゆらぐことはあります。
しかし、その土台に本質的な肯定感があれば、
コントロール感覚を保つことができます。

本質的な肯定感とは
自分は生まれてきてよかった存在なのだ。
自分は生きていく価値があるのだ、という自然な感覚のことです。

無条件の肯定的関心をむけられることは
自尊心を保っていく上では不可欠なものです。
子供が「自分が何をしても親は味方でいてくれる」などという形で
絶対的な安定感を持つことに通じるからです。

「いい子であれば味方でいてくれる」というような感覚しかもてないようでは
自尊心は育ちません。
常に「いい子」という条件を維持することだけにエネルギーを使い、
自分の不確かさを抱えて生きていくことになってしまいます。